「山代あいうえお」五十音図のはなし

「五十音図」は、加賀国温泉寺(現・石川県加賀市山代温泉)にいた明覚上人(一〇五六~没年不詳)によって、一〇九三年に作られました。
「五十音図」は、森羅万象を表す言葉の曼陀羅です。

本五十音図には「カタカナ」「万葉仮名」「英語」「フランス語」「ハングル」「梵字」での表記を付け加えました。

The Gojuon Table, the traditional system ordering Kana by their phoneme components, was created by the monk Myokaku in 1093 at Kaga-Onsen-Temple in Kaga, Ishikawa Prefecture.

To know the Gojuon Table is the first step to learn theJapanese language.

In this table there are added notation in Katakana, Manyo-gana(ancient Japanese writing), English, French, Hangul, and Sanskrit.

【その①】日本語は不思議!
 まだ新大陸が発見されていなかった頃の地図を思い浮かべてください。
紀元前の時代から弥生時代、奈良、平安、鎌倉時代とあらゆる文明文化は、西から東の端に位置する日本に向かって流れて来ました。
法隆寺に遺された品々、また奈良時代に東大寺に造られた正倉院の宝物を見ると、まさにそうした軌跡をはっきり見て取ることができます。
たとえば、法隆寺には、古代インドのサンスクリット語で書かれた本が伝わっています(通称:「法隆寺貝葉心経」、東京国立博物館所蔵法隆寺献納宝物)。これは、現存する最古のサンスクリット語本で、インド人が六世紀初頭に書写したものが、六〇九年に中国から我が国にもたらされたものだと言われています。
また正倉院には、ササン朝ペルシア(現・イラク)から伝わったとされる「白瑠璃碗」「瑠璃の杯【つき】」や「漆胡瓶【しっこへい】」、それに唐からも「螺鈿紫檀五絃琵琶」や「金銀平脱背八角鏡」、さらにミャンマー産の琥珀や西アジア産のトルコ石を使った「平螺鈿背円鏡」、ベトナムで産出したとされる「蘭奢待(黄熟香)」などが伝わっています。
まさに、南北に長く伸びて太平洋の西の端に位置する日本という島国は、西の国々からの文化を受け入れる最終地点だったと言っても過言ではないでしょう。
しかし、驚くことにそれは、「物」に限ったものについてだけではありません。言葉という点にしても、世界に類のない特異性を持って、世界中の言葉を借用しながら、独自の文化を構築することに成功したのが日本語と言語だったのです。
よく言われることですが、ひとつの文章のなかで、漢字、〈ひらがな〉、〈カタカナ〉、それに絵文字やアルファベット(たとえば古くは梵字)などを多様に駆使して書くことができるなんて、日本語以外の言語ではあり得ないことです。
それに、借用語という点について言えば、古くは中国の各王朝で使われた漢語はもちろん、朝鮮半島の百済語、仏教経典のオリジナル言語であるサンスクリット語などがありますし、近世ではポルトガル語やスペイン語にオランダ語、明治時代以降になると英仏独露などさまざまな言語が、まるではじめから日本語であったかのように使われているのです。
「旦那が、昨日買って来たミルフィーユに使ってあったラズベリーは、ジェラートにした方がおいしそうな味だったわ」
たとえば、この一文のなかに、どれだけ外国語が借用されているかお分かりでしょうか。
旦那=サンスクリット語、昨日=漢語、ミルフィーユ=フランス語、ラズベリー=英語、ジェラート=イタリア語
ビックリですね!
【その②】論理と情緒
 さて、日本の文化史を研究する人たちが古くから指摘して来たことのひとつに、「日本には哲学がない」ということがあります。仏教や儒教、それに神道という「教え」はあってもこれをヨーロッパ的な「哲学」や「思想」にまで構築する論理性が欠如しているというのです。
ヨーロッパ的なことに必ずしも価値があるというわけではありませんし、日本にはそうした思考が必要でなかったと言えばそれまでなのですが、それでも論理性なしには国家としての組織性を保つことはできないでしょう。
しかし、おそらく日本という国を保つには、論理性ともに「情緒性」というものこそ、非常に重要だったのではないかと思われます。
それは、中国から朱子学という新しい儒学が日本に入ってくる鎌倉時代(一一八五年)以前までは、基本的に女系社会であったことが大きな要因だったと考えられます。
ただ、いずれにせよ、論理性と情緒性というものが、適当に混ざり合うことによって、日本の文化、あるいはそれを作り出す基礎となる日本語は発展してきたに違いありません。
その証拠に、日本語の「音」と「文字」を一致させて覚えるために平安時代後期に作られたものに、「いろは歌」と「五十音図」というふたつのものがあるのです。
【その③】いろは歌と五十音図
まず、「いろは歌」、残念ながら最近は習わなくなってしまって、全部言えるという人は少なくなってしまいました。
「色は匂へと散りぬるを 我が世誰ぞ常ならむ 有為の奥山 今日越えて 浅き夢見し 酔ひもせす」という「いろは歌」は、涅槃経の偈に由来すると言われています。「すべてのものは無常。生じては滅びる性質のものである。この生と滅を滅し終わって、生もなく滅もないものを寂滅と言い、これがすなわち、楽、涅、槃なのである」ということを、当時の日本語の音と文字で表したものが「いろは歌」だと言われています。
これは、論理性というより「情緒」の世界観に根ざしたものと言えるでしょう。
これに対して、「五十音図」はいかがでしょう。
こちらは、日本語の母音は五つと決めて、日本語の音はすべて「子音+母音」で成り立っているとし、歯音、舌音、唇音、喉音など音の調音される位置までも考えて作られたものでした。
これを考え出したのは、明覚(一〇五六〜没年不詳)という天台宗の学僧です。
明覚は、比叡山で、唐代の中国語とサンスクリット語を学びますが、加賀山代の温泉寺(現・石川県加賀市山代温泉、薬王院)住職となり、この地で一〇九三年、「五十音図」を完成させるのです。
なぜ、加賀市の山代で? なぜ一一〇〇年よりちょっと前の時代に、こんなものを?
と思わない人はいないでしょう。
それは、山代では、比叡山で習った古い中国語から変化した新しい、「近世語としての中国語」が聴けたことが大きな要因でした。
明覚は、言語は時代とともに変化するという大きな言語学上の発見を、この地でしたのです。
では、なぜこの時代に?ということを考えてみましょう。
一一〇〇年というのは、『枕草子』『源氏物語』が書かれてちょうど百年を経た頃に当たります。
たとえば『枕草子』で清少納言は、次のように記しています。

なに事を言ひても、「そのことさせんとす」「いはんとす」「なにせんとす」といふ「と」文字を失ひて、ただ「いはむずる」「里へいでんずる」など言へば、やがていとわろし。(最近は「させんとす」を「させんす」、「なにせんとす」を「なにせんす」、「言はんとす」を「言はむずる」、「里へ出でんとす」を「里へいでんずる」などと、汚い言葉を使っている──筆者訳)

このように京都ではどんどん音韻変化を起こして、汚い日本語が現れて来ていた時代だったのです。具体的には「音便」と呼ばれる現象です。
しかし、変化して行く前の日本語が、山代ではまだ古い形で残っていたのです。
じつは、明覚がこの時作った五十音図は、方言や形が崩れていく日本語の発音のあらゆる不要な部分を削ぎ落として、論理的、仮説的に構築した「日本語の音を文字で表す理想象」だったのです。
「いろは歌」も「五十音図」もほぼ同じ時期、一〇八〇年頃に作られたものですが、以来、日本人らしい情緒を守るための「いろは歌」、そして「理想的な音の体系として組み上げられた五十音図」を両輪として日本語は発展を遂げることになったのです。

【その④】五十音図は残り続ける
さて、言葉の全体的体系は、概ね百年を単位に変化して行きます。
現代の日本語は、『枕草子』や『源氏物語』が書かれてから、約千年を迎えた状態にあります。
現在『源氏物語』を、予習もせず、辞書も使わず、現代語のように理解できるという人はありません。千年前の日本語は、まったく通じないのです。
ところで、『源氏物語』などが書かれた時代の言葉は、およそ九〇〇年頃に確立した日本語がもとになっています。それは〈ひらがな〉ができて、初めて〈ひらがな〉で、勅撰の『古今和歌集』が編集された時代の言葉であると言ってもいいでしょう。別の言い方をすれば、中国・唐王朝からの影響を脱し、〈ひらがな〉という非常に女性的な線で、情緒をたっぷりと描き出すことができることができるようになったのがこの時代の日本語だったのです。
それから千年、日本語は百年の言語体系の変化を十回ほど繰り返し、まったく『古今和歌集』とは違った言語となってしまったのが、明治時代だったのです。
二葉亭四迷、山田美妙、尾崎紅葉などが苦心した「言文一致運動」という言葉をご存知の方も少なくないと思います。
彼らは、自分たちが思うように「話す言葉」を、思うように「書けない」という日本語の言語体系に直面し、苦しみもがいたのです。結局、それは、正岡子規、夏目漱石、上田万年という人たちが解決して行くことになるわけですが、明治時代の近代日本語形成の苦労は、薩長と幕臣たちの関係などもあって、じつに込み入った様相を呈しています。
さて、明治時代の近代日本語形成で一番問題になったのは、方言の問題です。
青森の人と長崎の人が話しても、何を言っているのか通じない!いっそ日本語を捨てて英語にしてしまえ!という意見だって出てきます。
それはそうでしょう。江戸時代、藩が「国」であり、「国」を越えての伝達は御法度の状態で、民間人の往来は許されていなかったのですから。
どうやれば、「共通語」を作ることができるのか。
はたして、この時に使われたのが、「五十音図」だったのです。
じつは、「五十音図」は、明覚以来明治時代になるまで、サンスクリット語が分かる日本語研究者だけが私かに使っていたものでした。しかし、これを使えば、「「理想的な日本語としての音の体系」を全国の人に教えることができる!と、国語学者たちが言ったのでした。
明覚が作った「五十音図」は、明治時代、文部省によって学生が布かれる時になって、非常に科学的、論理的な、言語構造の分析を経たものだと評価されることになったのです。
現代でも、小学校に入る少し前の年頃の子どもがいる日本の家庭では、必ずと言っていいほど、大きな五十音図を壁に貼り、発音と文字を一致させる練習をします。これが日本語学習の第一歩です。
外国の方も同じです。日本語を勉強しようとすると、必ず、「五十音図」を覚えるところから始まります。そうしないと、五十音図配列になった日本語の辞書も使えないからです。
「いろは歌」は、日本の情緒とともに次第に忘れられてしまいましたが、「五十音図」は、「日本語の音を文字で表す理想象」として、外国語でさえも日本語で表すことのできる「曼荼羅」として、日本語がある限り生き続けることでしょう。
今、石川県加賀市山代温泉では、この明覚の偉業を顕彰するために「あいうえおの郷 加賀山代温泉にほんご文化の森事業」を興そうとしています。

執筆者プロフィール

山口 謠司氏
(大東文化大学名誉教授)
1963(昭和38)年、長崎県佐世保市に生まれる。
現在、大東文化大学文学部中国文学科教授。中国山東大学客員教授。
博士(中国学)。
長崎県立佐世保北高等学校、大東文化大学文学部卒業後、同大学院、フランス国立高等研究院人文科学研究所大学院に学ぶ。ケンブリッジ大学東洋学部共同研究員などを経て、現職。
中国山東大学国際漢学研究センター「全世界漢籍総合目録プロジェクト」日本代表。専門は、文献学、書誌学、日本語史など。また、イラストレーター、書家としても活動。

 

「山代あいうえお日本語年表」について

日本語の歴史が分かるように、エポックメイキングな出来事を枡目に埋めました。聞いたことがない人名や書名などもいっぱいだと思いますが、それぞれひとつずつが、我々が今、使う日本語を作って来た証なのです。

年表の中の、「725年 行基、ヤタガラスの導きで山代温泉を発見」、「1093年 明覚『反音作法』(最古の「五十音図」山代温泉で作られる!)」 、「1332~1392年 薬王院石造五輪塔(明覚上人供養塔)建立」が山代温泉に関連したものです。

ダウンロードして、日本語の歴史を勉強したりする資料として使って頂ければと思います。

 「山代あいうえ五十音図」について

日本語を勉強したい!と思う人が、まず必要なのが五十音図です。ただ、これまで、五十音図の発音を外国語で表したものはありませんでした。

ここでは、英語、フランス語、韓国語でその発音を表記し、さらに、日本語のカタカナ、平安時代初期まで使われた万葉仮名、そして五十音図ができるために必要不可欠だった梵字も合わせて表記しました。

 旅行に来る外国人の人たちにも、ぜひ、「五十音図」というものがあることを知って頂き、さらに日本語の不思議さや奥深さにも触れて頂きたいと思います。

 また、就学前のお子様のためにダウンロードしてお部屋に貼り、日本語の表記と発音を勉強する一助となれば幸甚に存じます。

GReeeeN「加賀温泉郷あいうえおんがく」

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